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2016年1月1日金曜日

古代にもあった「日本再生」 (新年のご挨拶として紹介)


 あけましておめでとうございます。
 今年は目に見えて日本が再生していくでしょうか?

 日本再生の願いを込めた新年のご挨拶として、「古代の日本再生」(蘇我氏と大化の改新)を紹介いたします。また、「古代の日本再生」に絡んで、月読命(つくよみのみこと)という神様を紹介いたします。
 大化の改新については、皆様、一度は聞いたことがあると思います。月読命は、あまり知られていない(と思われる)神様ですが、月の神、夜の神であり、山形の月山神社の祭神です。
 日本神話に登場する神様のうち、天照大神、須佐之男命、大国主命(須佐之男命の子孫)は良く知られています。月読命は知名度こそ低いものの、天照大神、須佐之男命、大国主命とともに、日本を象徴する神様の一柱だと思います。

 よろしければ続きをお読みください。



目次

1.古代の日本再生(蘇我氏と大化の改新)
2.月山、月山神社と蜂子皇子
3.日本を象徴する神々の一柱、月読命
4.添付資料



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1.古代の日本再生(蘇我氏と大化の改新)



1.朝鮮勢力と関係が深かった蘇我氏は、皇室に取り入って権勢を振るう

2.蘇我一族・蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺
…蘇我馬子個人の策動ではなく、多数の皇族・群臣の同意を得た上での「宮廷クーデター」であった可能性が指摘されている
…臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一
…死亡した当日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは、他に例が無い

信濃注:
・親朝鮮勢力が朝廷をほぼ乗っ取り完了していたのではないか?
・韓国の国策「日本乗っ取り」を連想させる
・現在の日韓と重なって見えてくる
(以上)

3.父である崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺されたため、蜂子皇子は馬子から逃れるべく聖徳太子によって匿われ、宮中を脱出
…海を船で北へと向い、現在の山形県鶴岡市由良の海岸にたどり着く

4.蜂子皇子はこの後、海岸から三本足の烏(ヤタガラスか?)に導かれて羽黒山に登り、羽黒権現を感得し、出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)を開いたと言われている
八咫烏(ヤタガラス)は、日本神話の中で神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されている。太陽の化身ともされる。
…蜂子皇子は羽黒で人々の面倒をよく見て、人々の多くの苦悩を取り除いた

信濃注:
・太陽の化身とは、皇祖神・天照大神の化身ではないのか
・人々の苦悩を取り除く姿は、現在の皇室にも通じる
(以上)

5.その後、大化の改新(乙巳の変)を経て、朝廷再生(日本再生)を果たす
蘇我氏は蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたり政権を掌握していた
…中臣鎌足(後の藤原鎌足)は、蘇我氏による専横に憤り、大王家(皇室)へ権力を取り戻す動きを取り始める
…中臣鎌足は、中大兄皇子に近づく。蹴鞠の会で出会う話は有名。共に南淵請安に学び、蘇我氏打倒の計画を練る。
…中大兄皇子は、蝦夷・入鹿に批判的な蘇我倉山田石川麻呂(蘇我石川麻呂)の娘と結婚。石川麻呂を味方にし、佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田らも引き入れる。
…そして、皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となり蘇我入鹿を暗殺。翌日には蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自殺。蘇我体制に終止符を打つ。
…この蘇我氏本宗家滅亡事件を、この年の干支にちなんで乙巳の変という。



2.月山、月山神社と蜂子皇子

・月山は、羽黒山とともに出羽三山のひとつ、修験者の山岳信仰の山として知られる
・月山は、蜂子皇子が開山したと伝えられる
・月山の山頂には月山神社が鎮座し、多くの修験者や参拝者が訪れる
・月山神社は蜂子皇子が建立
・月山神社の祭神は月読命



3.日本を象徴する神々の一柱、月読命

・伊弉諾尊(いざなぎ)によって生み出された
・月を神格化した、夜を統べる神
・太陽を象徴する天照大神と対になって誕生
・天照大神の弟神であり、須佐之男命の兄神

・月読命は、『古事記』、『日本書紀』の神話にはあまり登場せず、全般的に活躍に乏しい
…わずかに、『日本書紀』第五段第十一の一書で、穀物の起源として語られるぐらい
…これは、天照大神と須佐之男命という対照的な性格を持った神の間に、静かなる存在を置くことでバランスをとっているとする説がある



信濃注:

・月読命は、天照大神、須佐之男命、大国主命(須佐之男命の子孫)とともに、日本を象徴しているように見える

・太陽神、天岩戸の逸話、天孫降臨の逸話、天照大神
…言わずと知れた皇祖神、日本国民の総氏神
…恵みと温かい慈悲の象徴に見える

・荒ぶる神、八岐大蛇退治の逸話、須佐之男命
…八岐大蛇退治は思いやりと勇気、強さの象徴に見える
…日本初の和歌を詠む、文化の象徴にも見える
…「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」
…ちょっとワルでもある

・国譲りの神、縁結びの神、因幡の白兎の逸話、大国主命
…須佐之男命と対照的
…国譲りと縁結びは日本人団結の象徴に見える
…因幡の白兎は思いやりと優しさの象徴に見える

・そして、月と夜の神、月読命
…太陽と月、昼と夜が対になって自然が成り立つ
…昔は太陰暦を使っていた(農作業にも関連あり)
…活躍には乏しい、静かなる神
…しかし、日本には必要不可欠
…慈悲に過ぎず(象徴は天照大神)、勇に過ぎないように(象徴は須佐之男命)、バランスを取る役目を担っている

・「慈悲に過ぎず」=「情に流されず」という意味です。神様は慈悲の象徴、悪くありませんよ。
・「勇に過ぎず」=「蛮勇にならず」という意味です。勇の象徴、同上。
・行動すべきときは行動する
(言い忘れました、2016.1.1、17:50追記)

wikipedia-スサノオ
神話での記述
日本初の和歌 「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠に 八重垣作る その八重垣を」

wikipedia-大国主
信仰
 出雲大社は「大国主神が幽世の神事の主催神となられ、人間関係の縁のみならず、この世のいっさいの縁を統率なさっている」として、男女の縁のみならず、広く人と人との根本的な縁を結ぶ神であるとしている。

(信濃注、以上)





4.添付資料

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添付資料一覧

wikipedia-月山
wikipedia-月山神社
wikipedia-月読命
wikipedia-蜂子皇子
wikipedia-崇峻天皇
wikipedia-蘇我馬子
wikipedia-蘇我氏
wikipedia-聖徳太子
wikipedia-八咫烏
wikipedia-大化の改新



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wikipedia-月山

 月山(がっさん)は、山形県の中央部にあり、出羽丘陵の南部に位置する標高1,984mの火山。
 山域は磐梯朝日国立公園の特別区域に指定され、日本百名山[4]、新日本百名山[5]、花の百名山[6]及び新・花の百名山[7]に選定されている。また、山麓は月山山麓湧水群として名水百選[8]、月山行人清水の森として水源の森百選にも選定されている。

概要

 標高1,500mの湯殿山、418mの羽黒山とともに出羽三山のひとつに数えられ、修験者の山岳信仰の山として知られる。山頂には月山神社が鎮座し、多くの修験者や参拝者が訪れる。蜂子皇子が開山したと伝えられる。古くからの名では犂牛山(くろうしのやま)という。
 山体の姿は山形盆地、庄内平野、最上地方からよく見える。置賜地方であっても天候が良ければ望める。豊富な残雪のため、国内では乗鞍岳や立山と共に夏スキーが可能な山としても知られる。また、山形県のスポーツ県民歌に登場し、県を代表し親しまれている山である。



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wikipedia-月山神社

 月山神社(がっさんじんじゃ)は山形県の月山山頂(標高 1,984m)に鎮座する神社である。
 『延喜式神名帳』において名神大社とされた式内社で、明治の近代社格制度では東北地方唯一の官幣大社であった。古来から修験道を中心とした山岳信仰の場とされ、現在も多くの修験者や参拝者を集めている。

祭神

月読命

由緒

 社伝によれば、崇峻天皇の第3皇子である蜂子皇子が推古天皇元年(593年)に羽黒山を開山し、さらに同年、月山を開山して当社を建立したのだと言う。蜂子皇子は土地の人たちの面倒をよく見て、悩みや苦しみに耳をかたむけたことから「能除仙」[3]と呼ばれるようになったとされる。
 しかしながら、史料から考察する限り、開祖である能除仙と蜂子皇子が同一人物であると言う根拠は無い[2]。また、磐舟柵が3度目に修理された文武天皇4年(700年)[4]から出羽郡が建てられた和銅元年(708年)[5]の間に越国以北の夷征が行われたが、出羽の蝦夷征討が開始される前に出羽三山へ登ることは出来なかったと思われる[6]。
 『新抄格勅符抄』の宝亀4年(773年)10月符では月山神に神封2戸が寄せられているが、これが月山神の史上における初見である[1]。
 『日本三代実録』には月山神の記事が度々登場し、神階の陞叙を受けるなどしている。以下は時系列的に並べた『日本三代実録』における月山神の記事である。


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wikipedia-月読命

 ツクヨミ(ツキヨミ)/月読命は、日本神話の神である。
 後世は普遍ツクヨミのことを男神だと信じているが、実際その性別は記紀に述べられることはなかった。

神話での記述

 記紀(日本書紀と古事記)において、ツクヨミは伊弉諾尊(伊邪那伎命・いざなぎ)によって生み出されたとされる。月を神格化した、夜を統べる神であると考えられているが、異説もある(後述)。天照大神(天照大御神・あまてらす)の弟神にあたり、須佐之男(建速須佐之男命・たけはやすさのお)の兄神にあたる[注釈 1]。
 ツクヨミは、月の神[1]とされている[2]。しかしその神格については文献によって相違がある。
 『古事記』ではイザナギが黄泉国から逃げ帰って禊ぎをした時に右目から生まれたとされ、もう片方の目から生まれた天照大神、鼻から生まれた須佐之男とともに重大な三神(三柱の貴子)を成す。一方、『日本書紀』ではイザナギと伊弉冉尊(伊耶那美・イザナミ)の間に生まれたという話、右手に持った白銅鏡から成り出でたとする話もある。
 また、彼らの支配領域も天や海など一定しない。
 ツクヨミは太陽を象徴する天照大神と対になって誕生する。
 この成り立ちは比較神話学の分野では、各国の神話にも見られると指摘できる[3][4]。例えばギリシア神話において太陽神アポローンと月の女神アルテミスが双子とされる[注釈 2]。
 中国の盤古伝説[5]には、盤古が死してその左眼が太陽に、右目が月になったという起源譚がある。『旧約聖書』の創世記では、天地創造の四日目に、神が空の中に「二つの巨いなる光」、すなわち太陽と月を創り上げたと語られている。
 日本神話において、ツクヨミは『古事記』『日本書紀』の神話にはあまり登場せず、全般的に活躍に乏しい。わずかに『日本書紀』第五段第十一の一書で、穀物の起源として語られるぐらいである。これはアマテラスとスサノオという対照的な性格を持った神の間に静かなる存在を置くことでバランスをとっているとする説がある[6]。
 同様の構造は、高皇産霊尊(高御産巣日神・たかみむすび)と神皇産霊神(神産巣日神・かみむすび)に対する天之御中主神(あめのみなかぬし)、火折尊(火遠理命(ほおり)・山幸彦)と火照命(ほでり・海幸彦)に対する火酢芹命(火須勢理命・ほすせり)などにも見られる。
 ツクヨミはスサノオと支配領域やエピソードが一部重なることから、同一神説を唱える者がいる[7]。民族学者のアレクサンダー・スラヴィクはツクヨミを女神と仮定した上で、死者の主である男性的な神オーディンが同じく死者の主であり母祖であるペルヒタ(ホルレ)と対になっているように、男神スサノオと女神ツクヨミは一対と見ていいのではないか、としている[8]。



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wikipedia-蜂子皇子

 蜂子皇子(はちこのおうじ、波知乃子王、欽明天皇23年?(562年?) - 舒明天皇13年10月20日?(641年11月28日?))は飛鳥時代の皇族。崇峻天皇の第三皇子。

概説

 欽明天皇23年(562年)に崇峻天皇の第三皇子として誕生したと伝わる。
 崇峻天皇5年(592年)11月3日に、蜂子皇子の父である崇峻天皇が蘇我馬子により暗殺されたため、馬子から逃れるべく蜂子皇子は聖徳太子によって匿われ宮中を脱出して丹後国由良(現在の京都府宮津市由良)から海を船で北へと向った。
 そして、現在の山形県鶴岡市由良にたどり着いた時、八乙女浦にある舞台岩と呼ばれる岩の上で、八人の乙女が笛の音に合わせて神楽を舞っているのを見て、皇子はその美しさにひかれて、近くの海岸に上陸した。八乙女浦という地名は、その時の八人の乙女に由来する。
 蜂子皇子はこの後、海岸から三本足の烏(ヤタガラスか?)に導かれて、羽黒山に登り羽黒権現を感得し、出羽三山を開いたと言われている。
 羽黒では、人々の面倒をよく見て、人々の多くの苦悩を取り除いた事から、能除仙(のうじょせん)や能除大師、能除太子(のうじょたいし)などと呼ばれる様になった。現在に残されている肖像画は、気味の悪いものが多いが、多くの人の悩みを聞いた結果そのような顔になったとも言われている。
 出羽三山神社にある皇子の墓(東北地方で唯一の皇族の墓)は、現在も宮内庁によって管理されている。



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wikipedia-崇峻天皇

 崇峻天皇(すしゅんてんのう、欽明天皇14年(553年?) - 崇峻天皇5年11月3日(ユリウス暦592年12月12日?))は、第32代天皇(在位:用明天皇2年8月2日(587年9月9日?) - 崇峻天皇5年11月3日(592年12月12日?))。諱は泊瀬部(はつせべ)、即位前は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)と称した。『古事記』には長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)とある[1]。

暗殺

 592年10月4日に、猪を献上する者があった。天皇は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。
 そのことを聞きつけた馬子が「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した。そして東国の調を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢駒に暗殺をさせた。
 臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一である[2]。死亡した当日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは、他に例が無い。近年、歴史学者の佐藤長門は「王殺し」という異常事態下であるにも関わらず、天皇暗殺後に内外に格段の動揺が発生していないことを重視して、馬子個人の策動ではなく多数の皇族・群臣の同意を得た上での「宮廷クーデター」であった可能性を指摘している[3]。

信濃注:
親朝鮮勢力が朝廷をほぼ乗っ取り完了していたのではないか?
現在の日韓と重なって見えてくる
(以上)



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wikipedia-蘇我馬子

 蘇我 馬子(そが の うまこ)[注釈 1]は、飛鳥時代の政治家、貴族。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。敏達天皇のとき大臣に就き、 以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年に亘り権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築く。



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wikipedia-蘇我氏

 蘇我氏(そがうじ)は、「蘇我」を氏の名とする氏族。姓は臣(おみ)。
 古墳時代から飛鳥時代(6世紀 - 7世紀前半)に勢力を持ち、代々大臣(おおおみ)を出していた有力豪族である。

出自

 『古事記』や『日本書紀』では、神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰を祖としている。具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、それ以前に関しては以下の諸説がありよく分かっていない。

・河内の石川 (現在の大阪府の石川流域、詳細に南河内郡河南町一須賀あたりと特定される説もある)の土着豪族という説
・葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)の土着豪族という説

 『新撰姓氏録』では蘇我氏を皇別(歴代天皇から分かれた氏族)に分類している。

歴史

 渡来系の氏族と深い関係にあったと見られ、王権の職業奴属民としての役割を担っていた渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。また、仏教が伝来した際にそれをいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされる。これは、朝廷の祭祀を任されていた連姓の物部氏、中臣氏を牽制する為の目的も有ったと推察される。
 6世紀後半には今の奈良県高市郡近辺を勢力下においていたと思われている。蘇我氏が政治の実権を掌握した時代以後、その地域に集中的に天皇の宮がおかれるようになったことからもうかがわれる。

蘇我氏渡来人説

 門脇禎二が1971年に提唱した[1]が、現在は否定されている。門脇が提唱したのは応神天皇の代に渡来した、百済の高官、木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が同一人物とする説で、鈴木靖民や山尾幸久らの支持[2]を得た一方、加藤謙吉や坂本義種らが批判[3]したように、史料上の問題点が多い。根拠が不十分であり、現在では支持する研究者はいない[4]。



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wikipedia-聖徳太子

 聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))は、飛鳥時代の皇族、政治家。厩戸皇子または厩戸王の後世の呼称。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。
 推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど大陸の進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を厚く信仰し興隆につとめた。





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wikipedia-八咫烏

 八咫烏(やたがらす、やたのからす)は、日本神話において神武東征(じんむとうせい)の際、高皇産霊尊(タカミムスビ)によって神武天皇のもとに遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされるカラス(烏)[1]。
 一般的に三本足のカラスとして知られ古くよりその姿絵が伝わっている[1]。

概要

 八咫烏は、日本神話において、神武天皇を大和の橿原まで案内したとされており、導きの神として信仰されている[2]。また、太陽の化身ともされる[3]。
 熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏は熊野大神(素盞鳴尊)に仕える存在として信仰されており[2]、熊野のシンボルともされる[4]。近世以前によく起請文として使われていた熊野の牛玉宝印(ごおうほういん)にはカラスが描かれている[3]。
 咫(あた)は長さの単位で、親指と中指を広げた長さ(約18センチメートル)のことであり、八咫は144cmとなるが[5]、ここでいう八咫は単に「大きい」という意味である[1]。
 なお、八咫烏は『日本書紀』や『古事記』に登場するが、『日本書紀』では、同じ神武東征の場面で、金鵄(金色のトビ)が長髄彦との戦いで神武天皇を助けたともされるため[3]、八咫烏と金鵄がしばしば同一視ないし混同される。



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wikipedia-大化の改新

 大化の改新(たいかのかいしん)は、飛鳥時代の孝徳天皇2年(大化2年)春正月甲子朔(西暦646年)に発布された改新の詔に基づく政治的改革。
 中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(後の藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした乙巳の変の後に行われたとされる(ただし、蝦夷・入鹿暗殺の乙巳の変からとする場合もある)。
 天皇の宮を飛鳥から難波宮(現在の大阪市中央区)に移し、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされる。
 また「大化」は日本最初の元号である。

乙巳の変

詳細は「乙巳の変」を参照

 蘇我氏は蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたり政権を掌握していた。
 中臣鎌足(後の藤原鎌足)は、蘇我氏による専横に憤り、大王家(皇室)へ権力を取り戻すため、まず軽皇子(後の孝徳天皇)と接触するも、その器ではないとあきらめる。
 そこで鎌足は、中大兄皇子に近づく。蹴鞠の会で出会う話は有名。共に南淵請安に学び、蘇我氏打倒の計画を練ることになった。
 中大兄皇子は、蝦夷・入鹿に批判的な蘇我倉山田石川麻呂(蘇我石川麻呂)の娘と結婚。石川麻呂を味方にし、佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田らも引き入れる。
 そして、皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となり蘇我入鹿を暗殺。翌日には蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自殺。蘇我体制に終止符を打った。
 この蘇我氏本宗家滅亡事件をこの年の干支にちなんで乙巳の変という。



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改訂履歴
※2016.1.1、解説追記、「3.日本を象徴する神々の一柱、月読命」>>「信濃注」欄

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