外患罪の代表的な適用検討事例は、日ソ中立条約締結化における旧外患罪の適用検討事例、ソ連のスパイを逮捕したゾルゲ事件でしょう。
旧外患罪の適用条件の一つは「敵国であること」です。ゾルゲ事件の親玉・ソ連は、ゾルゲらがスパイ活動をしていた当時のうち(犯行当時のうち)、1939.8の独ソ不可侵条約締結までは「潜在」敵国と言えるでしょう。ただし、現に戦争している敵国ではありませんでした。敵国の定義は人によって組織によって様々あるでしょうが、ゾルゲ事件の容疑者が旧外患罪で「起訴」されなかった以上、当時の裁判所による敵国の定義(敵国の認定要件)は未定です。
ちなみに、ゾルゲ事件容疑者の「逮捕」当時、1941年のソ連は「中立国」でした。敵国ではありません。
1936.11.25 日独防共協定署名
1939.8.23 独ソ不可侵条約締結
1940.6.27 ゾルゲ事件、捜査開始
1940.9.27 日独伊三国同盟署名
1941.4.13 日ソ中立条約署名
1941.9.27 ゾルゲ事件、1人目の逮捕、北林
1942 ゾルゲら、国防保安法、軍機保護法、軍用資源秘密保護法、治安維持法違反などにより起訴(外患罪では不起訴)
1943.9~1944.3 一審・東京刑事地方裁判所、ゾルゲは死刑判決
これらの事情を考慮すると、旧刑法(旧外患罪を含む)に基づいて起訴・不起訴を判断した当時の検事局(現在の検察庁相当)が苦悩したであろうことが想像できます。「逮捕」当時に「中立国」だったソ連のスパイを旧外患罪で起訴し、有罪・死刑となれば、諸外国、特にソ連から見て「大日本帝国はソ連を敵国と認めた」ことにされかねません。
もちろん、仮に起訴・有罪・死刑になったとしても、「日ソ中立条約の締結交渉中を含むスパイの犯行時期には敵国であった」と司法が認めただけであって、行政府である内閣や国家元首である天皇陛下が認めた訳ではありません。しかし、司法が認めて内閣と天皇陛下が認めていないことであっても、ソ連などの諸外国は上手く利用する可能性が高い。当時は帝国主義であり、相手はソ連です。
日中戦争開戦後(1937.7.7、盧溝橋事件、支那事変、北支事変)、太平洋戦争開戦前後(1941.12.8、真珠湾攻撃)の時期の逮捕・検挙です。検事局職員は、当時の情勢でさらにソ連を敵に回したら恐ろしいことになると想像し、苦悩したかもしれません。
当時から日本は法治国家ですから、本来は諸外国の意図など介せず国内法に則って裁くべきなのでしょうが...検事局から裁判所に対して、旧外患罪という敵国認定を伴う司法判断を求めなかったのは事実ですね。私が知らないその他の事情で起訴しなかった可能性もあります。公判前の諸外国大使館などからの極秘干渉とか、他にもあるかもしれません。
結果的には「適用が検討されたが、公判維持の困難さのために見送られ、国防保安法、治安維持法等により起訴された」(wikipedia-外患罪 >> 概説)ようです。
主な出来事(時系列)
1931.9.18 満州事変勃発
※1933~、ゾルゲらのスパイ活動概要
…ゾルゲが1934年と1935年の前半に入手した情報は、事実上すべて、伝書使によってソ連に送られた。(wikipedia-ゾルゲ諜報団 >> 概要)
1933.9.6 ゾルゲ、横浜着
…以後、東京で本格的なスパイ・ネットワークを築き始める(wikipedia-ゾルゲ諜報団 >> 概要)
…1934年の春には、ゾルゲが調査すべく派遣された基本的な問題点、つまりソ連に対する日本の意図を探ることは特殊な重要性を帯びていた。というのは、その冬に日ソ関係が緊張していたからである。満州国の北部を両断していたソ連管理下の東支鉄道に関する両国の会談は、何の進歩も示していなかった。(wikipedia-ゾルゲ諜報団 >> 概要)
…1934年の前半に、彼(信濃注:宮城与徳)は陸軍の対ソ政策に関する報告書をゾルゲに提出した。この報告書の内容は、陸軍に所属する人々の意見や人事配置、関東軍が増強されていること、新聞と接触している幾人かの将校が対ソ攻撃を煽っていること、桜会が次第に影響力を増していることなどから、ソ連に対する攻撃が早まる可能性があることを指摘していた。しかしながら、開戦騒ぎは5月半ばまでには鎮まった。(wikipedia-ゾルゲ諜報団 >> 概要)
1935.6 尾崎と宮城、日本陸軍内部で対立している派閥の関係を示す図表を作成。宮城からゾルゲに手渡される。
…この図表を受け取ったゾルゲは、彼の使命とその見通しについて赤軍第4部に報告するため、モスクワに行くことになる。ゾルゲは協議とベルンハルトよりも優秀な無線技師を得るために召還するようモスクワに要求しており、それが1935年5月に認められたのである。(wikipedia-ゾルゲ諜報団 >> 概要)
…この図表を受け取ったゾルゲは、彼の使命とその見通しについて赤軍第4部に報告するため、モスクワに行くことになる。ゾルゲは協議とベルンハルトよりも優秀な無線技師を得るために召還するようモスクワに要求しており、それが1935年5月に認められたのである。(wikipedia-ゾルゲ諜報団 >> 概要)
1935.7 ゾルゲ、モスクワに3週間滞在
…モスクワに到着後、ゾルゲはまず赤軍第4部の新しい部長セミヨン・ペトロヴィッチ・ウリツキーに直接会って報告する。ゾルゲは、彼の知識と接触範囲からして、日本での諜報活動が可能であることを自信をもって述べることができた。(wikipedia-ゾルゲ諜報団 >> 概要)
…モスクワに到着後、ゾルゲはまず赤軍第4部の新しい部長セミヨン・ペトロヴィッチ・ウリツキーに直接会って報告する。ゾルゲは、彼の知識と接触範囲からして、日本での諜報活動が可能であることを自信をもって述べることができた。(wikipedia-ゾルゲ諜報団 >> 概要)
1936.2 クラウゼン、自家製無線機によりイルクーツク経由でモスクワに電波を届けることに成功。その後ウラジオストックのヴィズバーデン局と本格的な交信を始める。(wikipedia-ゾルゲ諜報団 >> 概要)
※以上、ゾルゲらのスパイ活動概要
…ゾルゲが1934年と1935年の前半に入手した情報は、事実上すべて、伝書使によってソ連に送られた。(wikipedia-ゾルゲ諜報団 >> 概要)
1936.2.26 二・二六事件
1936.11.25 日独防共協定署名
※以上、ゾルゲらのスパイ活動概要
…ゾルゲが1934年と1935年の前半に入手した情報は、事実上すべて、伝書使によってソ連に送られた。(wikipedia-ゾルゲ諜報団 >> 概要)
1936.2.26 二・二六事件
1936.11.25 日独防共協定署名
1937.7.7 盧溝橋事件(支那事変、北支事変)
…日中戦争の開戦については諸説あるが、盧溝橋事件を開戦とする説もある
1937.11.6 日独伊防共協定署名
…日独伊三国同盟への動きは、1938年夏から39年夏までの日独伊防共協定強化への動きと、40年夏から三国同盟締結に至るまでの動きの二つに分けられる。前者は対ソ同盟を目指したもので、独ソ不可侵条約の締結により頓挫した。後者の交渉ではソ連を加えた4か国による対米同盟を日独外相は望んでいたが、全ての関係者の思惑が一致したわけではなかった。(wikipedia-日独伊三国同盟 >> 締結に至る経緯)
…1939.8、独ソ不可侵条約締結まで、ソ連は「潜在」敵国と言える。敵国の定義は様々あるだろうが、現に戦争している敵国ではない。
…1938.8、独ソ不可侵条約締結後、1941.4、日ソ中立条約締結までは、防共協定締結国である独の不可侵国、或いは、同盟国である独の不可侵国、つまり、日本の味方である独と中立な国となる。
…1941.4、日ソ中立条約締結後、ソ連は正式に中立国となる。
…日独伊三国同盟への動きは、1938年夏から39年夏までの日独伊防共協定強化への動きと、40年夏から三国同盟締結に至るまでの動きの二つに分けられる。前者は対ソ同盟を目指したもので、独ソ不可侵条約の締結により頓挫した。後者の交渉ではソ連を加えた4か国による対米同盟を日独外相は望んでいたが、全ての関係者の思惑が一致したわけではなかった。(wikipedia-日独伊三国同盟 >> 締結に至る経緯)
…1939.8、独ソ不可侵条約締結まで、ソ連は「潜在」敵国と言える。敵国の定義は様々あるだろうが、現に戦争している敵国ではない。
…1938.8、独ソ不可侵条約締結後、1941.4、日ソ中立条約締結までは、防共協定締結国である独の不可侵国、或いは、同盟国である独の不可侵国、つまり、日本の味方である独と中立な国となる。
…1941.4、日ソ中立条約締結後、ソ連は正式に中立国となる。
1939.8.23 独ソ不可侵条約締結
1940.6.27 ゾルゲ事件、捜査開始
…満州国憲兵隊からソ連が押収し、ロシア国内で保管されていた内務省警保局の「特高捜査員褒賞上申書」による(wikipedia-ゾルゲ事件 >> 経緯)1941.4.13 日ソ中立条約署名
1941.4.25 日ソ中立条約発効
※以下、wikipedia-ゾルゲ事件 >> 経緯 より
1941.9.27 ゾルゲ事件、1人目の逮捕、北林
1941.10.10 ゾルゲ事件、宮城を逮捕
1941.10.13 ゾルゲ事件、九津見、秋山を逮捕
1941.10.14 ゾルゲ事件、尾崎を検挙
1941.10.18 ゾルゲ事件、ゾルゲ、マックス・クラウゼン、ブランコ・ド・ヴーケリッチを検挙
1941.12.8 太平洋戦争開戦(真珠湾攻撃)
1942.3.15 ゾルゲ事件、田中を検挙
1942.4.28 ゾルゲ事件、磯野を検挙
1942.6.5 太平洋戦争・ミッドウェー海戦
…軍部は大敗を隠蔽
1942 ゾルゲら、国防保安法、軍機保護法、軍用資源秘密保護法、治安維持法違反などにより起訴(外患罪では不起訴)
1943.2.1~2.7 太平洋戦争、日本軍ガダルカナル島撤退
…1943.2.9、大本営発表「(前略)その目的を達成せるにより、2月上旬同島を撤し、他に転進せしめられたり」
1943.4.18 太平洋戦争、連合艦隊司令長官・山本五十六の戦死
…1943.5.21、大本営発表により戦死公表
1943.9~1944.3 一審・東京刑事地方裁判所、ゾルゲは死刑判決、他は添付資料参照
その後、ゾルゲ、尾崎ら被告の大部分が大審院へ上告するも、棄却されて刑が確定
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添付資料一覧
引用
・検察庁の組織と沿革 >> 沿革 法務省ホームページ
・wikipedia-外患罪
…新旧刑法を通じて起訴事例なし。従って、外患罪適用に関する司法判断は出ていない。
…ゾルゲ事件逮捕者については外患罪適用が検討されたが、公判維持の困難さのため見送り(不起訴)。国防保安法、治安維持法など外患罪以外の罪で起訴、有罪。
・刑事事件コラム 外患誘致罪の定義|必ず死刑となる重大犯罪の適用条件 刑事事件弁護士ナビ様、2016.8.3記事
・wikipedia-ゾルゲ事件
…旧刑法(旧外患罪、戦時中の逮捕)における外患罪の適用検討事例。新旧刑法(新旧外患罪)を通じて代表的な適用検討事例。
…リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が、日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたとして、1941年9月から1942年4月にかけて[1]その構成員が逮捕された事件。
・wikipedia-ゾルゲ諜報団
…ゾルゲ諜報団は、リヒャルト・ゾルゲを筆頭に、昭和期の日本を中心に極東で活動したソ連のスパイグループ。日本でゾルゲ事件を引き起こした後、一斉検挙された。ゾルゲ国際諜報団、ゾルゲ・グループなどとも呼ばれ、ゾルゲのコードネームにちなみラムゼイ機関ともいう。
…ゾルゲ諜報団は、リヒャルト・ゾルゲを筆頭に、昭和期の日本を中心に極東で活動したソ連のスパイグループ。日本でゾルゲ事件を引き起こした後、一斉検挙された。ゾルゲ国際諜報団、ゾルゲ・グループなどとも呼ばれ、ゾルゲのコードネームにちなみラムゼイ機関ともいう。
リンクのみ
…1939.8.23 締結
wikipedia-日独伊三国同盟
…1940.9.27 署名
wikipedia-日ソ中立条約
…1941.4.13 署名
…1941.4.25 発効
・外患罪、適当なこと言ってる奴いるな、誤誘導になってるぞ 2017.8.27
・外患罪関連資料集、国会質問他(再出稿) 2017.6.6・外患罪告発、余命ブログ告発状記事、その他関連記事リンク集 2016.11.1
・外患罪関連資料集、国会質問他(再出稿) 2016.10.11
・外患罪関連資料集、国会質問他 2016.9.9
・外患罪の法解釈その2、および、公訴時効に関する一考察 2016.8.29
・外患罪、最高裁への適用に関する一考察 2016.6.18
・外患罪の法解釈(対象行為、適用開始日時を含む) 2016.6.14
以下、引用文
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検察庁の組織と沿革 >> 沿革 法務省ホームページ
(中略)明治23年2月ドイツ人ルドルフの起草した裁判所構成法が制定,公布され,同年10月にはいわゆる旧々刑事訴訟法が制定,公布されました。この法によると検事局は裁判所に付置(裁判所の一部局とする趣旨ではない。)されたこと,検事の任官資格や俸給についても裁判官と同一となっていること及び職務権限等から見ても,現在の検察制度の基本となったということができます。その後大正11年5月には,いわゆる旧刑事訴訟法が制定,公布されました。そして,第二次世界大戦終結後,連合国軍隊の占領下において,昭和22年4月16日法律第61号「検察庁法」が,また,同23年7月10日法律第131号「刑事訴訟法」が制定,公布され,現在の検察官及び検察庁が誕生することとなったのです。
現行の刑事訴訟制度は,憲法上三権分立主義が徹底されたことから,裁判所は,従前の司法大臣の司法行政上の手を離れて独立の組織として編成されることとなり,また,検察官についても裁判所法とは別に検察庁法が制定されたことにより,両者は組織上明確に分離されることとなったのです。刑事司法における検察官の職責は,捜査,公判を通じてより一層重要となったということができます。
(引用以上)
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wikipedia-外患罪
外患罪は、外国と通謀して日本国に対し武力を行使させ、又は、日本国に対して外国から武力の行使があったときに加担するなど軍事上の利益を与える犯罪である。現在、外患誘致罪(刑法81条)や外患援助罪(刑法82条)などが定められており、刑法第2編第3章に外患に関する罪として規定されている。刑法が規定する罪で最も重罪のものである。現在まで適用例はない。
目次 ※「1 概説」のみ引用
1 概説
2 外患誘致罪
2.1 保護法益
2.2 行為
2.3 法定刑
2.4 未遂
2.5 共犯
3 外患援助罪
3.1 保護法益
3.2 行為
3.3 法定刑
3.4 未遂
3.5 共犯
4 外患予備罪・外患陰謀罪
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
概説
外患罪は国家の存立に対する罪である。いわゆる国家への反逆となる戦争犯罪(売国行為)であり、刑法の中でも最も厳しい刑罰を科すものである。未遂・予備に留まらず、陰謀をすることによって処罰されうる点でも特異である。
内乱罪が国家の対内的存立を保護法益とするのに対し、外患罪は国家の対外的存立を保護法益とする。本罪の罪質については、国民の国家に対する忠実義務違反であるとする説[1]と国家の存立の危殆化を罰するものであるとする説[2]とがある。本罪は国内犯はもちろん国外犯にも適用がある(刑法1条・刑法2条3項)。
通常、「武力の行使」は国際法上の戦争までは意味しないと解されるが、何を以って武力とし(たとえば国内の自衛隊や警察の装備及び人員の利用など)、どのような手段を以って行使とするかについて明確な法解釈は存在しない。なお、クーデターなど国家転覆にかかる場合には内乱罪があてられる。
非常に強権的法規であり、かつ外交問題と直結するため、訴追側(検察)、審判側(裁判所)ともに適用に非常に消極的で、同罪状で審判した例はもちろん、訴追した例すらいまだにない。1942年に起訴されたゾルゲ事件において適用が検討されたが、公判維持の困難さのために見送られ、国防保安法、治安維持法等により起訴された。
外患誘致罪と外患援助罪は裁判員制度の対象となるが、適用され有罪となれば戦争との関連も必然的に出てくるなど困難な案件である。
なお、裁判員制度には「裁判員や親族に対して危害が加えられるおそれがあり、裁判員の関与が困難な事件」(裁判員法3条)については、対象事件から除外できる規定がある。
信濃注:
・旧法の前提条件:敵国があること、武力行使があること
・新法の前提条件:日本に武力行使した外国があること
(以上)
元来は戦争状態の発生及び軍隊の存在を前提とした条文だったが、日本国憲法第9条の関係で、昭和22年(1947年)の「刑法の一部を改正する法律」(昭和22年法律第124号)により根本的に改正され、「戰端ヲ開カシメ」「敵國ニ與シテ」等の字句や、利敵行為条項(第83条〜第86条)・戦時同盟国に対する行為(第89条)等、日本国政府が戦争の当事者であることを意味する規定を削除・改正している。ただし、武力の行使が前提となることに変わりはない(サイバー攻撃や金融・通貨を含む経済戦争には対応していない)。
刑法新旧条文の比較は以下の通り。
旧条文
第81条[外患誘致]
外國ニ通謀シテ帝國ニ對シ戰端ヲ開カシメ又ハ敵國ニ與シテ帝國ニ抗敵シタル者ハ死刑ニ處(処)ス
信濃注:
外国に通謀して大日本帝国に対して開戦させ、または、敵国に与して大日本帝国に敵対した者は死刑とする。
(以上)
第82条[外患援助]
要塞、陣營、軍隊、艦船其他軍用ニ供スル場所又ハ建造物ヲ敵國ニ交附シタル者ハ死刑ニ處ス
兵器、彈藥其他軍用ニ供スル物ヲ敵國ニ交附シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ處ス
信濃注:
要塞、陣営、軍隊、艦船、その他、軍用に提供する場所、または、軍用に提供する建造物を敵国に交付した者は死刑とする。兵器、弾薬、その他、軍用に提供する物を敵国に交付した者は死刑、または、無期懲役とする。
新旧の外患援助罪は条文そのものが違う。旧法の外患援助罪は敵国に対する場所、建物、物の提供を罰する罪。対して新法の外患援助罪は、日本に武力行使した外国の軍務に服すこと、および、日本に武力行使した外国に軍事上の利益を提供することを罰する罪。即ち、新法の外患援助罪を平たく言えば、旧法の通謀利敵罪を含む、利敵行為全てを罰する罪。
(以上)
第83条[通謀利敵]
敵國ヲ利スル爲、要塞、陣營、艦船、兵器、彈藥、汽車、電車、鐵道、電線其他軍用ニ供スル場所又ハ物ヲ損壊シ若クハ使用スルコト能ハサルニ至ラシメタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ處ス
信濃注:
敵国を利するため、要塞、陣営、艦船、兵器、弾薬、汽車、電車、鉄道、電線、その他、軍用に提供する場所、または、軍用に提供する物を損壊し、もしくは、使用できない状態にした者は死刑、または、無期懲役とする。
(以上)
第84条[同前]
帝國ノ軍用ニ供セサル兵器、彈藥其他直接ニ戰闘ノ用ニ供ス可キ物ヲ敵國ニ交附シタル者ハ無期又ハ三年以上ノ懲役ニ處ス
信濃注:
大日本帝国の軍用に提供させていない兵器、弾薬、その他、直接に戦闘に使う物を敵国に交付した者は、無期、または、三年以上の懲役とする。
(以上)
第85条[同前]
敵國ノ爲メニ間諜ヲ爲シ又ハ敵國ノ間諜ヲ幇助シタル者ハ死刑又ハ無期若クハ五年以上ノ懲役ニ處ス
軍事上ノ機密ヲ敵國ニ漏泄シタル者亦同シ
信濃注:
敵国のためにスパイ活動をし、まはた、敵国のスパイ活動を助けた者は死刑、または、無期、もしくは、五年以上の懲役とする。
(以上)
第86条[同前]
前五條ニ記載シタル以外ノ方法ヲ以テ敵國ニ軍事上ノ利益ヲ與ヘ又ハ帝國ノ軍事上ノ利益ヲ害シタル者ハ二年以上ノ有期懲役ニ處ス
信濃注:
前の五条(81条~85条)に記載した以外の方法で敵国に軍事上の利益を与え、または、大日本帝国の軍事上の利益を害した者は二年以上の有期懲役とする。
(以上)
第87条[未遂]
前六條ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス
信濃注:
前の六条(81条~86条)の未遂罪は罰する
(以上)
第88条[外患予備・陰謀]
第八十一條乃至八十六條ニ記載シタル罪ノ豫備又ハ陰謀ヲ爲シタル者ハ一年以上十年以下ノ懲役ニ處ス
信濃注:
第八十一条~八十六条に記載した罪の予備、または、陰謀をした者は一年以上十年以下の懲役とする。
(以上)
第89条[戰時同盟國ニ対スル行爲]
本章ノ規定ハ戰時同盟國ニ對スル行爲ニ亦之ヲ適用ス
信濃注:
本章の規定は戦時の同盟国に対する行為にも適用する。
(以上)
新条文
第81条[外患誘致]
外国と通謀して日本国に対し武力を行使させた者は、死刑に処する。
第82条[外患援助]
日本国に対して外国から武力の行使があったときに、これに加担して、その軍務に服し、その他これに軍事上の利益を与えた者は、死刑又は無期若しくは二年以上の懲役に処する。
第83条乃至第86条 削除
第87条[未遂]
第八十一条及び第八十二条の罪の未遂は、罰する。
第88条[外患予備・陰謀]
第八十一条又は第八十二条の罪の予備又は陰謀をした者は、一年以上十年以下の懲役に処する。
第89条 削除
(後略)
(引用以上)
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刑事事件コラム 外患誘致罪の定義|必ず死刑となる重大犯罪の適用条件
刑事事件弁護士ナビ様、2016.8.3記事
外患誘致罪(がいかんゆうちざい)とは、外国と共謀し、日本に対して武力行使を誘発する犯罪行為です。法定刑では死刑しか設けられていないとても恐ろしい犯罪です。
今回は、そのような外患誘致罪の定義や外患誘致罪に関連する罪、過去の外患誘致罪などについてご説明をします。正直なところ、外患誘致罪で逮捕されることが考えられることはほとんどゼロといっていいでしょうから、雑学の一つとして読み進めていただければと思います。
【目次】
■外患誘致罪は死刑しかない
■外患誘致罪の定義
■外患援助罪・内乱罪など他の罪との関連
■外患援助罪での事件は未だかつてない
■まとめ
外患誘致罪は死刑しかない
冒頭でもご説明したように、外患誘致罪とは外国と共謀して日本に対しての武力行使を誘発する犯罪です。法定刑には死刑しかありません。
犯罪行為は、刑法によって裁かれることになりますが、様々な犯罪がある中で法定刑が死刑のみになっている犯罪は、この外患誘致罪しかありません。それでは、そのような外患誘致罪についてご説明していきます。
外患誘致罪の定義
それでは、外患誘致罪について見てみましょう。外患誘致罪については刑法81条に明記されており「外国と通謀して日本国に対し武力を行使させた者は、死刑に処する」と明記されています。このように刑法でも死刑しか設定されていない恐ろしい罪なのです。
外患誘致罪は日本国を裏切る行為
外患誘致罪を大まかに説明すると、日本国を裏切る行為を言います。外国が日本に攻め入ることを誘発することでこの外患誘致罪になるのです。
「外国」にはテロ組織などは含まれない
ここで言う外国とは、外国の政府や軍隊、外交使節などの国家機関の事を指します。近年諸外国では、テロ行為をよく目にしますが、テロ組織は国家機関ではありませんので、この外患誘致罪には当てはまりません。
もちろん、テロに加担したのであれば、国際法やテロに関する法律によって裁かれることになります。
武力行使の定義
武力行使とは、何も戦争を引き起こさせることだけでありません。例えば、日本の安全を侵害させる目的で、日本国内に軍隊を侵入させたり、ミサイル攻撃などをすることです。
外患誘致罪の例
これらを踏まえて外患誘致罪の例を挙げると、
A国の首相と共謀して、日本に侵略するような計画を練り、それを実行に移した時点で外患誘致罪になります。
例えこの計画が、日本の自衛隊によって阻止されたとしても未遂として罰されます。外患誘致罪では未遂も罪になります。
法定刑は死刑のみ
お伝えの通り、外患誘致罪では死刑しか設けられていません。有罪になった時点で死刑が確定です。そこで、裁判も慎重に行われることが考えられます。上記のように未遂の場合も罪になりますので、仮に死者が出なかったとしても死刑になることもあります。
外患援助罪・内乱罪など他の罪との関連
外患誘致罪に似た罪で、外患援助罪や内乱罪などがあります。こちらではそれらの罪についてのご説明をします。
外患援助罪
外国からの武力行使があった際に、それに加担する行為は外患援助罪になります。例えば、A国が日本に攻めてきたときに、A国の軍隊に味方するような行為です。法定刑は、【死刑/無期/2年以上の懲役】になります。
外患予備・陰謀罪
外患誘致を実行していなくても、そのことを予備したり陰謀しても罪になります。計画や準備をすることです。法定刑は【1年以上10年以下の懲役】です。
内乱罪
外患誘致罪は、外国の武力行使を誘発することですが、国内での暴動は内乱罪によって刑罰が下されます。内乱罪での法定刑は暴動を行った人物の立場で変わってきて以下のようになっています。
・首謀者
…死刑/無期禁錮
・謀議参与者、群衆指揮者などのリーダー格
…無期または3年以上の禁錮
・職務従事者
…1年以上10年以下の禁錮
・単なる暴動参加者
…3年以下の禁錮
内乱予備・陰謀罪
内乱の場合もそれを計画したり準備することで罪になります。法定刑は【1年以上10年以下の禁錮】です。
内乱等幇助罪
内乱を起こすための兵器や資金、場所、食料などを供給し、幇助(ほうじょ)した場合は、内乱等幇助罪になります。法定刑【7年以下の禁錮】になっています。
外患援助罪での起訴は未だかつてない
いかがでしょうか。このような死刑しか設けられていない外患誘致罪ですが、実際のところ外患誘致罪で起訴がされた事は今まで一度もありません。殺人の場合でもよほど悪質でない限り死刑にならないのに対し、外患誘致罪では法定刑に死刑しかないことから捜査機関も非常に慎重になります。
更に、外国の武力行使がされるということは、戦争が始まってしまう危険性もあるため、そもそも滅多に起きるような出来事ではないのです。
一度だけ外患誘致罪が検討されたゾルゲ事件
それでも、過去に一度だけ外患誘致罪での起訴として検討されたことがあります。太平洋戦争前の「ゾルゲ事件」と言うものです。内閣のブレーンとして政界において重要な地位を占めていた日本人がソ連のスパイと共謀し、諜報活動・謀略活動を行った事件です。
外患誘致罪での起訴も考えられましたが、結果的に見送られ、首謀者の日本人とスパイのソ連人は治安維持法や国防保安法の違反によって死刑になり処刑を受けました。
まとめ
いかがでしょうか。このように現実的には発生しにくいであろう外患誘致罪ですが、刑法できちんと設けられており、死刑のみという重い罪が課されることになります。
(引用以上)
wikipedia-ゾルゲ事件
ゾルゲ事件は、リヒャルト・ゾルゲを頂点とするソ連のスパイ組織が日本国内で諜報活動および謀略活動を行っていたとして、1941年9月から1942年4月にかけて[1]その構成員が逮捕された事件。この組織の中には、近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実もいた。
目次 ※「1 経緯~1.5 その後」部分のみ引用
1 経緯
1.1 ゾルゲらの諜報活動
1.2 逮捕
1.3 裁判
1.4 処刑
1.5 その後
2 資料
3 研究書・資料文献
4 関連作品
4.1 書籍
4.2 戯曲
4.3 映画
4.4 漫画
5 脚注
6 関連項目
経緯
ゾルゲらの諜報活動
ゾルゲらの諜報活動についてはリヒャルト・ゾルゲ、マックス・クラウゼン、尾崎秀実、ゾルゲ諜報団を参照のこと。
逮捕
太平洋戦争開戦直前の1941年9月から1942年4月にかけて、ドイツのフランクフルター・ツアイトゥング紙の記者として東京に在住していたゾルゲや尾崎らのグループはスパイ容疑で警視庁特高部特高第1課と同外事課によって逮捕された。軍事情報のスパイは陸軍の憲兵隊の管轄であるが、コミンテルンのスパイとして特別高等警察が取り扱った[2]。
特別高等警察はアメリカ共産党党員である宮城与徳やその周辺に内偵をかけていた。宮城や、同じアメリカ共産党員で1939年に帰国した北林トモなどがその対象であった。満州国の憲兵隊からソ連が押収してロシア国内で保管されていた内務省警保局の「特高捜査員褒賞上申書』には、ゾルゲ事件の捜査開始は「1940年6月27日」であったと記されている[3]。
なおこれを知ったドイツ大使館付国家保安本部の将校で、ゾルゲと親しく特高との関係も深かったヨーゼフ・マイジンガーは、ゾルゲに対する捜査を止めるように特高に依頼している。またマイジンガーは、ゾルゲの逮捕後にベルリンの国家保安本部に対して「日本当局によるゾルゲに対する嫌疑は、全く信用するに値しない」と報告している[4]。さらにオット大使や国家社会主義ドイツ労働者党東京支部、在日ドイツ人特派員一同もゾルゲの逮捕容疑が不当なものであると抗議する声明文を出した[5]。
1941年9月27日の北林を皮切りに事件関係者が順次拘束・逮捕された[6][7]。10月10日に宮城が逮捕され、この際に行われた家宅捜査では数多くの証拠品が見つかり、事件の重要性が認識された。宮城宅を視察することによって10月13日には九津見房子、秋山幸治が逮捕された。宮城は取調べの際に自殺を図るが失敗、以後は陳述を始め、尾崎秀実やリヒャルト・ゾルゲなどがスパイであることが判明した。このとき、在日ロシア人のアレクサンドル・モギレフスキー(ヴァイオリニスト)、同じくレオ・シロタ(ピアニスト)、その娘ベアテ・シロタ・ゴードン(のちの日本国憲法の起草者の一人)、クラウス・プリングスハイム(指揮者)の次男クラウス・フーベルト・プリングスハイム、関屋敏子(声楽家)などの音楽関係者もスパイ容疑をかけられた[8]。
捜査対象に外国人がいることが判明した時点で、警視庁特高部では特高第1課に加え外事課が捜査に投入された。尾崎とゾルゲらの外国人容疑者を同時に検挙しなければ外国人容疑者の国外逃亡や大使館への避難、あるいは自殺などが予想されるため、警視庁は一斉検挙の承認を検事に求めた。しかし、大審院検事局が日独の外交関係を考慮し、まず尾崎の検挙により確信を得てから外国人容疑者を検挙すべきである、と警視庁の主張を認めなかった。このため、10月14日に尾崎の検挙が先行して行われ、10月18日外事課は検挙班を分けてゾルゲ、マックス・クラウゼン、ブランコ・ド・ヴーケリッチの3外国人容疑者を同時に検挙した。この際、クラウゼン宅からは証拠として無線機が発見されている[9]。また、翌1942年(昭和17年)には尾崎の同僚であった朝日新聞東京本社政治経済部長田中慎次郎(3月15日)、同部員磯野清(4月28日)が検挙された。
グループの逮捕後、尾崎の友人で衆議院議員かつ汪兆銘・南京国民政府の顧問も勤める犬養健、同じく友人で近衛文麿内閣嘱託であった西園寺公一、ゾルゲの記者仲間でヴーケリッチのアヴァス通信社の同僚であったフランス人特派員のロベール・ギランなど、数百人の関係者も参考人として取調べを受けたが、ゾルゲが当時の同盟国であるドイツ人であり、しかもオイゲン・オット大使やヨーゼフ・マイジンガーと親しいことや、前年にイギリスのスパイの疑惑で逮捕されたイギリスのロイター通信社の特派員のM・J・コックスが、特高による取調べ中に飛び降り自殺したこと(コックス事件)もあり、特に外国人に対する取調べは慎重に行われたという。
ゾルゲの個人的な友人であり、ゾルゲにドイツ大使館付の私設情報官という地位まで与えていたオット大使は、ゾルゲが逮捕された直後から、友邦国民に対する不当逮捕だとして様々な外交ルートを使ってゾルゲを釈放するよう日本政府に対して強く求めていた。しかし、間もなく特別面会を許されたオットは、ゾルゲ本人からソ連のスパイであることを聞き知る。これを受けてオット大使はヨアヒム・フォン・リッベントロップ外務大臣に辞表を提出したが拒否された。さらにその後1941年12月に日本がイギリスやアメリカなどの連合国と開戦し、ドイツもアメリカとの間に開戦したこともあり、繁忙の中で大使職に留まり続け、ようやく1942年11月になりフォン・リッベントロップ外務大臣より駐日大使を解任された、その後南京国民政府の北京へと家族とともに向かい、そこで終戦までの間を暮らした。
裁判
ゾルゲらは1942年に国防保安法、軍機保護法、軍用資源秘密保護法、治安維持法違反[10]などにより起訴された。1審は1943年9月から翌44年3月にかけて東京刑事地方裁判所第九部で行われ(裁判長判事 - 高田正、判事 - 樋口勝・満田文彦)、以下の判決が下された。ゾルゲ・尾崎ら被告の大部分は大審院へ上告したが、全て棄却され刑が確定した[11]。
リヒャルト・ゾルゲ 死刑(1944年11月7日執行)
ブランコ・ド・ヴーケリッチ 無期懲役(1945年1月13日獄死)
マックス・クラウゼン 無期懲役(1945年10月9日釈放)
アンナ・クラウゼン 懲役3年(1945年10月7日釈放)
尾崎秀実 死刑(1944年11月7日執行)
宮城与徳 未決拘留中、1943年8月2日獄死
小代好信 懲役15年(1945年10月8日釈放)
田口右源太 懲役13年(1945年10月6日釈放)
水野成 懲役13年(1945年3月22日獄死)
山名正実 懲役12年(1945年10月7日釈放)
船越寿雄 懲役10年(1945年2月27日獄死)
川合貞吉 懲役10年(1945年10月10日釈放)
河村好雄 未決拘留中、1942年12月15日獄死
九津見房子 懲役8年(1945年10月8日釈放)
秋山幸治 懲役7年(1945年10月10日釈放)
北林トモ 懲役5年(1945年1月服役中危篤となり、仮釈放後の2月9日病死)
菊池八郎 懲役2年(釈放日不明)
安田徳太郎 懲役2年(執行猶予5年)
西園寺公一 懲役1年6月(執行猶予2年)
犬養健 無罪
処刑
刑が確定したゾルゲらは、巣鴨拘置所に拘留された。その後同拘置所に拘留され続け、1944年11月7日のロシア革命記念日に、ゾルゲと尾崎の死刑が執行された。死刑執行直前のゾルゲの最後の言葉は、日本語で「これは私の最後の言葉です。ソビエト赤軍、国際共産主義万歳」であったと言われている。
翌1945年1月にはヴーケリッチも北海道の網走刑務所で獄死したが、マックス・クラウゼンは戦後夫婦ともども連合国軍によって釈放され、生きて故郷の東ドイツに戻ることができた。
その後
ゾルゲ事件に関してスターリンは無視をつづけたが、フルシチョフ時代が終焉した1964年11月5日になってソ連政府から名誉回復が行われ、「ソ連邦英雄」となっている。ソ連崩壊後もロシア駐日大使が東京都郊外の多磨霊園にあるゾルゲの墓に参るのが慣行となっている。これはゾルゲの功績をソ連、ロシア政府が高く評価していることを示している。
宮城には1965年1月19日、当時のソ連政府から大祖国戦争第二等勲章が授与される事が決定した(尾崎も同様に叙勲されている)が、宮城は1943年に獄死し遺族の消息も不明であったため、2010年1月にようやく姪の所在が確認されロシアから伝達された[12]。
(後略)
(引用以上)
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wikipedia-ゾルゲ諜報団
ゾルゲ諜報団は、リヒャルト・ゾルゲを筆頭に、昭和期の日本を中心に極東で活動したソ連のスパイグループ。日本でゾルゲ事件を引き起こした後、一斉検挙された。ゾルゲ国際諜報団、ゾルゲ・グループなどとも呼ばれ、ゾルゲのコードネームにちなみラムゼイ機関ともいう。
目次 ※「1 概要」、「3 日本のおける諜報活動」のみ引用
1 概要
2 前史
2.1 コミンテルンから赤軍へ
2.2 上海における諜報活動
3 日本における諜報活動
3.1 ゾルゲの来日
3.2 日本への集結
3.3 初期の活動とメンバーとの接触
3.4 尾崎秀実の活躍
3.5 ゾルゲのモスクワ帰還と新たな無線技師
3.6 二・二六事件の報告
3.7 日独関係をめぐって
3.8 日本が対ソ開戦するか否か
3.9 一斉検挙
4 関連人物
5 参考文献
6 小説
7 脚注
8 関連項目
概要
1930年、赤軍参謀本部第4局から上海に派遣されたゾルゲは、そこで尾崎秀実やアグネス・スメドレーと会い、中国での情報収集に従事した。
1933(昭和8)年9月にゾルゲは日本に入国、本格的なスパイ・ネットワークをつくり以後9年間にわたり活動し、大日本帝国政府の国家機密や軍事情報、さらに在日ドイツ大使館の極秘情報などを入手して、ソ連労働赤軍本部第4諜報総局(局長ヤン・ベルジン大将)に通報していた。それは、「日米戦争を想定して南方進出を決定した御前会議の内容から、独軍のソ連侵攻作戦の計画。対ソ作戦計画、日本の戦争遂行能力」などであり、なかでも「独軍のソ連侵攻作戦」の極秘情報は、ゾルゲを信頼していた駐日ドイツ大使のオイゲン・オットから得た情報であった。
ゾルゲ・グループは上海や東京で暗躍し、日本政府の南進政策に影響を与えるとともに、その情報をソ連にもたらした。
日本で活動したメンバーはリーダーのリヒャルト・ゾルゲをはじめ、マックス・クラウゼン、ブランコ・ド・ヴーケリッチ、尾崎秀実、宮城与徳である。また、協力者としては、秋山幸治、川合貞吉、川村義雄、北林トモ、九津見房子、小代好信、篠塚虎雄、田口右源太、中西巧、船越寿雄、安田徳太郎、山名正美、水野成、ギュンター・シュタインなどがおり、情報提供者ないし情報源としては、犬養健、西園寺公一、風見章、オイゲン・オット、アルブレヒト・フォン・ウラッハ、ヘルベルト・フォン・ディルクセン、ロベール・ギランなどの名が挙げられている。
前史
(引用せず)
日本における諜報活動
ゾルゲの来日
ゾルゲは1932年には日本経由で上海からソ連に戻り、ここでさらなる訓練を受ける。その後、ドイツに2ヵ月ほど滞在して、新聞記者としての身分の偽装を行い、『ベルゼン・ツァイトンク』紙と、『テークリッヘ・ルントシャウ』紙の2つの新聞と、日本から記事を送る契約を結ぶ(後者は1933年12月に発行禁止処分)。
『テークリッヘ・ルントシャウ』の論説委員ツェラー博士がかつて兵士であったことから親密となり、かれからオイゲン・オットへの紹介状をもらう。オットは当時、名古屋の日本陸軍の砲兵連隊に、連絡と教育のために陸軍武官補として配属されていた。
また、ベルリンの同僚の記者や日本と貿易していた商社から紹介状をもらい、さらにミュンヘンのカール・ハウスホーファーを訪れ、東京駐在のドイツ大使フォレッチ博士(de:Ernst Arthur Voretzsch)とワシントン駐在の日本大使出淵勝次宛の紹介状をもらう。
ゾルゲがベルリンで行った秘密の接触の主なるものは、無線技師「ベルンハルト」[1]に会ったことであり、2人は10月に東京ホテルで再会することを取り決める。ゾルゲは7月にフランスのシェルブールからニューヨークへ渡り、出淵大使から外務省情報部長宛の紹介状を受け取る。そして、1933年9月6日に横浜に到着し、東京で本格的なスパイ・ネットワークを築き始める。
日本への集結
最初に日本に到着したのはブランコ・ド・ヴーケリッチであった。彼はフランスの写真雑誌『ヴュ』(VU)の契約特派員およびユーゴスラビアの新聞『ポリティカ』の特派員として、イタリア船ドレスランド号でマルセイユから1933年(昭和8年)2月11日に横浜に上陸。ついで、首領のリヒャルト・ゾルゲがドイツの日刊紙『フランクフルター=ツァイトング』の特派員としてカナダのバンクーバーからカナダ船エンプレス・オブ・ロシア号で9月6日横浜に到着。さらに10月24日にはアメリカ共産党カリフォルニア支部から派遣された宮城与徳が画家の身分で、カリフォルニアのサンペドロから日本船ブエノスアイレス丸で横浜に上陸。そしてゾルゲが上海以来、情報ソースのパートナーとして信頼していた尾崎秀実と奈良公園の近くの猿沢池で4年ぶりに再会するのは翌1934年6月初旬のことである。
この段階ではマックス・クラウゼンはメンバーに含まれておらず、別のメンバーと交代する形でビジネスマンに身分を偽装し、1935年11月28日にサンフランシスコから日本郵船の龍田丸で来日した。
初期の活動とメンバーとの接触
ゾルゲが東京で最初に手がけた仕事は、駐日ドイツ大使館に接触することであった。ゾルゲの行動は迅速で、来日1週間後には代理大使のエルトマンスドルフ(de:Otto von Erdmannsdorff)にナチス党員の新聞記者として面会し館員スタッフの紹介も受けていた。
この日を境に、ゾルゲは駐日大使館を頻繁に訪ねる。後年、駐日大使に就任するドイツ国防軍大佐オイゲン・オットと出会うのも、すでに大使館での信頼を築いていたからこそだった。最初の出会いは1933年秋、オットが赴任していた名古屋の砲兵第3連隊の宿舎であった。それ以来、ゾルゲとオットの関係は親密度を増し、オットが大使に就任して以降の2人は、さらに信頼関係も増していく。
すでに来日したブランコ・ド・ヴーケリッチは、フランス語の個人教師をしながら『ポリティカ』に特派員として記事を書いて生活しており、秋になってゾルゲと接触する。
ヴーケリッチはマルセイユを発つときにコミンテルンのメンバーから「山王ホテルに宿をとったら、日刊英字新聞のジャパン・アドヴァタイザー紙に載る文化アパートの空室広告を見ること。そして入居の契約をしたら、文化アパートに移れ」という指示を受けていた。しかしヴーケリッチは東京万平ホテルに宿をとったため、新聞広告を探すのに手間取り、実際に新聞広告を見たときは9月になっていた。
最初、ヴーケリッチを訪ねて来たのは、シュミット(ゾルゲのコードネーム)を名乗る貿易商ブルーノ・ヴェントであった。ゾルゲは用心のためヴェントを文化アパートに送り込み、ヴーケリッチがコミンテルンから派遣された本物の人物かどうか、確認させたのである。そのときの合言葉は「ジョンソンを知っていますか」であった。
ヴェントから「ヴーケリッチに間違いない」という報告を受け、ようやくゾルゲが文化アパートを直接訪ねていった。ヴーケリッチと会ったのは11月だった。情報活動の要諦を事細かに説明し、最初に指示したのはヴーケリッチに牛込区内に一軒家を借りさせることであった。またゾルゲは会合するための場所として、銀座のレストラン「フロリダ・キッチン」を指名。その後は、レストランで度々、会合を持つことになる。
ゾルゲはヴーケリッチと接触後、彼に、宮城与徳と接触させるための新聞広告をアドヴァタイザー紙に出すことを指示していた。「大家の浮世絵及び同上の英文本買いたし。至急入用。詳細、題名、作家、価格等に関する問い合わせは、以下の通り・インクル(ヴーケリッチのコードネーム)」、連絡先の電話番号は広告代理店の内藤一水社になっていた。
宮城が広告代理店に連絡してきたのは12月中旬。ヴーケリッチが宮城と接触したのは広告代理店が入っているビルの前であった。もちろん2人は初対面である。2人がラムゼイ機関の一員であることを確認した手段は1ドル札の半券だった。ちょうど紙幣番号のところを割符にしていたのである。早速、ヴーケリッチは宮城と接触したことをゾルゲに伝えた。
その後、宮城とゾルゲは12月末に上野美術の前で会うことになる。その時の目印はネクタイを用いた。ゾルゲは黒、宮城は青、それがお互いを識別する目印になった。そして2人の接触は成功した。
1933年末に新任のドイツ大使、ヘルベルト・フォン・ディルクセン博士が東京に到着する。彼はその前にソ連駐在大使を務めていた。ゾルゲの見解では、ディルクセンの主要な使命は「ソ連に敵対的な方向に日独関係の舵を取っていく」ことであった。ゾルゲはすでに大使館員と親しくしており、1933年末に『テークリッヘ・ルントシャウ』紙のために書いた日本についての記事はドイツで好意的な注目を引き、大使館でもゾルゲの地位を高めていた。
ゾルゲの大使館での足場は、1934年に新任の海軍武官パウル・ヴェネッカー大佐が来日すると、いっそう確固としたものとなった。ゾルゲは彼のことを「パウルヘン」と呼び、この交際はヴェネッカーの1934~37年にわたる最初の日本勤務期間を通じて続き、その後海軍少将になって1940年に再び東京に帰ってきたときも、その親交は新たにされることになる。
アルブレヒト・フォン・ウラッハ侯爵も、ゾルゲが日本での最初の1年間につくった友人の中に数えられる。彼は、『フェルキッシャー・ベオバハター』紙の通信員として1934年に東京に来たが、ドイツを発つ前にゾルゲの記事をいくつか読んでおり、会いたいと思っていた。
ゾルゲは他の通信員と同様、外務省で週に3度行われた記者会見に出席した。また、聯合通信社(後の同盟通信社)や、陸海軍省の新聞局とも定期的な接触を保っていた。彼は京浜ドイツクラブに入会し、そこのバーとともに、図書館を大いに利用した。やがて彼はヨーロッパの言語で書かれた日本関係の書物がもっともよくそろっていた東京クラブの会員にもなった。
またゾルゲは駐日ドイツ大使館に出入りし、大使館付武官のオイゲン・オットの信頼を得、1934年にはナチスに正式に入党する。
1934年5月末には宮城が「南龍一」を名乗り大阪朝日新聞本社に尾崎秀実を訪ね、彼を介して6月に奈良において尾崎とゾルゲが再会、このとき尾崎はゾルゲに全面的な支援を約束する。年末には尾崎が朝日新聞東京本社に新設された東亜問題調査会の専門委員として転任、まもなく、日本の毎年の鋼板生産量、石炭採掘量、軍事費の推移などの詳細な統計がゾルゲにもたらされるようになる。これらの統計資料はヴーケリッチにより写真撮影されマイクロフィルムに収められた。
上記のように当初、ヴーケリッチは、写真技術を持っていることから、ゾルゲから回された報告書を写真に複写することを担当した。その複写は、普通マイクロフィルムの形で、ときおり上海の伝書使と会ってモスクワに送り出された。
この頃、第4部との無線連絡はほぼ失敗であり、それはベルンハルトの、臆病とさえ形容できる慎重さに負うところが大きかった。ベルンハルトは、横浜在住の輸出業者としての偽装を確立して後、2台の通信機を組み立て、1台は彼の横浜の家に、もう1台はヴーケリッチの住んでいる東京の家に据え付けた。しかし、彼はゾルゲの与えた通信の半分も送り出さなかった。1934年のいつごろからか、ゾルゲはベルンハルトを返さねばならないと決意した。そして1935年の初めには、その年のうちに彼とその妻をモスクワに帰す手配ができていた。
1934年の春には、ゾルゲが調査すべく派遣された基本的な問題点、つまりソ連に対する日本の意図を探ることは特殊な重要性を帯びていた。というのは、その冬に日ソ関係が緊張していたからである。満州国の北部を両断していたソ連管理下の東支鉄道に関する両国の会談は、何の進歩も示していなかった。
この頃、軍事関係については宮城与徳ができる限り調べねばならなかった。1934年の前半に、彼は陸軍の対ソ政策に関する報告書をゾルゲに提出した。この報告書の内容は、陸軍に所属する人々の意見や人事配置、関東軍が増強されていること、新聞と接触している幾人かの将校が対ソ攻撃を煽っていること、桜会が次第に影響力を増していることなどから、ソ連に対する攻撃が早まる可能性があることを指摘していた。しかしながら、開戦騒ぎは5月半ばまでには鎮まった。
その7月、宮城はゾルゲから、コミンテルンが軍の出版物に基づく日本陸軍の情報を欲していると聞かされた。そこで、宮城は神田の書店を通じて、月刊誌『軍事と技術』の定期購読者になった。彼は1934年8月号から、「ソ連の新兵器」、「赤軍の分析」、「仏・独・英陸軍の新兵器」などの標題のついた多くの論文から抜書きを取った。これは1936年の春まで続いた。
この頃、宮城は急ぎの報告書の翻訳家として、秋山幸治を協力者とした。秋山はかつて『日米新聞』で働いており、1931年にロサンジェルスで北林トモの紹介で宮城と知り合った。秋山は宮城から金銭を貰い、8年間の長きにわたりこの仕事に従事し、その期間の大部分は宮城と同居していた。
ゾルゲが1934年と1935年の前半に入手した情報は、事実上すべて、伝書使によってソ連に送られた。1934年5月、ゾルゲは伝書使と接触するため、上海に旅行することになる。また、この年の秋にはオットとともに、満州国旅行へ出かけている。
尾崎秀実の活躍
1934年9月、尾崎が朝日新聞東京本社に移るよう招請され、東亜問題調査会に携わることになる。彼は既に中国専門家として嘱望されつつあり、アグネス・スメドレーの『女一人大地を行く』の翻訳を出版したのもこのときであった。東京に移ってからの尾崎は彼の人的ネットワークを大幅に拡大する。
尾崎は東京に落ち着くと、毎月、定期的にゾルゲと接触しはじめた。2人はレストランや、待合などで会うようになる。後に尾崎は調査官にその名前を教えており、例えば雅叙園、ローマイヤー、上野の明月荘、築地の花月、赤坂の君永楽、虎ノ門の満鉄ビル(2015年時点で商船三井本社ビル)6階のレストラン「亜細亜」、銀座のバー「ラインゴールド」[2]などがあった。尾崎はこれらの会合の際、最初は「尾竹」の偽名を用いたが、逆に嫌疑を招くことになると感じ、すぐに本名で通した。
1934年から1935年の冬にかけての2人の主要な話題は国家主義の急成長に関してであった。すでに東京移転前の1934年7月の会合で、尾崎はゾルゲに五・一五事件の報告を行っていた。また尾崎は、国家主義運動の情報を得るため川合貞吉を利用しようと考える。
川合貞吉は尾崎の上海時代の友人で、いわゆる大陸浪人として活動しており、尾崎のことを心から尊敬していた。1932年5月、川合は上海の日本警察に捕らえられ、3週間を獄中で過した。7月に日本に帰ると、すぐに尾崎と接触し、しばらくは静かに潜むよう勧められるが、その年の末には、中国北部に帰って、中国共産党のために活動するよう言われる。
尾崎自身も2、3日の間、川合とともに北京へ行き、アグネス・スメドレーと接触する。川合は中国人連絡員から与えられた資金で、天津に本屋を開く。この本屋の道を隔てた向かい側には特務機関の事務所があり、川合はかつての右翼活動家、大陸浪人としての評判と人脈により、ここから中国共産党への価値ある情報を集めていたが、次第に中国人連絡員との関係が薄くなり、ついには途切れてしまう。
そこで、彼は1934年2月に再び日本に帰り、尾崎と接触した。上記の理由から、尾崎は東京で活動するよう勧め、川合は東京の郊外に住んでいた藤田勇の家に転がり込む。藤田勇は天津特務機関の関係者で、中国北部で川合と交際していた。川合はゾルゲと直接に接触することはなく、彼の得た情報は尾崎を介してゾルゲに報告されていた。
一方で、1935年5月に尾崎の紹介で宮城とは上野の料亭で会っており、そこで2人はたちまち意気投合することになる。同年6月、2人は日本陸軍内部で対立している派閥の関係を示す図表を作成し、宮城からゾルゲに手渡される。この図表を受け取ったゾルゲは、彼の使命とその見通しについて赤軍第4部に報告するため、モスクワに行くことになる。ゾルゲは協議とベルンハルトよりも優秀な無線技師を得るために召還するようモスクワに要求しており、それが1935年5月に認められたのである。
ゾルゲのモスクワ帰還と新たな無線技師
ベルンハルト夫妻を送り出した後、ゾルゲはソ連への旅を隠すため、6月末にアメリカ行きの船に乗る。ニューヨークでオーストリア国籍の偽造の旅券を共産党の連絡員から受け取り、フランスへ向かい、パリでソ連領事館から入国ヴィザをもらい、オーストリア、チェコスロヴァキア、ポーランドを経由してソ連に向かった。1935年7月にモスクワに到着し、3週間滞在することになる。これがゾルゲにとって最後のモスクワ滞在となる。
モスクワに到着後、ゾルゲはまず赤軍第4部の新しい部長セミヨン・ペトロヴィッチ・ウリツキーに直接会って報告する。ゾルゲは、彼の知識と接触範囲からして、日本での諜報活動が可能であることを自信をもって述べることができた。
さらに彼は自身の諜報団の正式な一員として尾崎秀実を認めるよう要請し、この要求は叶えられた。またグループの新しい無線技師としてヴァインガルテンかクラウゼンのどちらかを任命するよう要請した。クラウゼンは上海時代に仕事をともにしており、ゾルゲにとって信頼できるパートナーであった。これにより、1933年8月からモスクワに戻っていたマックス・クラウゼンが日本での任務に就くことになる。ゾルゲはウリツキーから日独関係が発展する方向を非常に詳しく注目するよう注意された。
1935年夏、ロンドンのフィナンシャル・ニューズとニューズ・クロニクル紙の特派員に偽装したギュンター・シュタイン(「グスタフ」)が日本に入国した。同年11月28日、モスクワの指令でサンフランシスコ経由で派遣された無線通信士のマックス・クラウゼンが横浜に到着した。
1936年2月にはクラウゼンの自家製無線機が微弱な電波を発信し、シュタインの家の2階からイルクーツク経由でモスクワに届けることに成功し、その後ウラジオストックのヴィズバーデン局と本格的な交信を始めた。使用した通信機は手製のハンディタイプのもので、この時使った周波数は38メガサイクル。クラウゼンはこの外にも5種類の周波数を用意していて、アンテナはワイヤーアンテナを屋内の天井に張っており、電波の浸透力をよくするために木造の家を借りていた。それに屋内での発信時間は探知されることを警戒して、最長でも3分を超えることはなかった。その間に発信できる暗号次数は1000字であった。また、発信場所としてはヴーケリッチの借家やゾルゲの宅をランダムに使った。電文が長い場合、資料の原文、地図、図表とともにマイクロフィルムを諜報団のメンバーが上海や香港でモスクワから来ていた連絡員に受け渡した。
この頃、ゾルゲは「ヴィックス」、クラウゼンは「フリッツ」、ヴーケリッチは「ジゴロ」という風に偽名を変えた。
二・二六事件の報告
1936年に起きた二・二六事件を本格的に分析し、報告する。この分析には宮城与徳の判断が資するところが大きい。これは同年5月の『ツァイトシュリフト・フォア・ゲオポリティーク』誌に、「東京における陸軍の叛乱」という題の記事として、1936年3月付「R・S」の署名で掲載される。
なお、この記事はカール・ラデックが一部を『プラウダ』に再録し賞賛した。このことに仰天したゾルゲは、以後「R・S」署名の『ゲオポリティーク』と『フランクフルター・ツァイトンク』の記事を再録しないようモスクワに要請した。
この頃から、ゾルゲは大使館内において小型カメラを使用し書類を写真撮影するようになる。
日独関係をめぐって
1936年11月25日に締結されることになる日独防共協定に対しては、ディルクセン大使とオット大佐に対し、「協定反対の方向に向けていくように、できる限り努力した」。このとき用いた方法は「ビスマルクの政策、つまり英仏に敵対して露と同盟するというドイツの伝統的な政策」を彼らに思い出させることであった。
1938年にはオイゲン・オットがドイツの全権大使となる。ゾルゲは大使館内に個室を与えられて政治顧問にまで推薦された。
1938年6月、GPUの将校であったゲンリフ・リュシコフが満州国に亡命、関東軍の保護を受ける。彼は日本側の最初の尋問で、シベリアにおける国内の反対運動の構成について詳しく説明し、ソ連の国内情勢について語った。この情報は、日本側からショル大佐に廻され、ショルがそれをゾルゲに見せた。ゾルゲは、リュシコフの日本側に対する供述の予備的な結果を要約して、無線通信をモスクワに送った。
ショルはベルリンに電報を送り、東京へソ連専門家を至急派遣するよう要請した。ヴィルヘルム・カナリス提督の特使として、ドイツの軍事情報機関からグライリング大佐が到着すると、2度目の尋問が始まった。その結果は「リュシコフ・ドイツ特使会見報告及び関係情報」と題する100ページほどの覚書に要約された。ゾルゲはショルからその文書を借りると、重要な部分を写真に撮影し、そのフィルムを送達するべきかどうかの指令を待つという無電をモスクワに送った。
1938年9月5日付の電報は、「カナリスの特使が日本陸軍より受領予定の文書の写し、ないしは特使がリュシュコフより個人的に受け取った文書の写しを入手するため全力を尽くし、あらゆる手段を利用せよ。これらの文書が入手できたならば直ちに報告せよ」というものだった。そのフィルムはやがて伝書使を通じて送られたが、その内容は、リュシコフの供述によってソ連の最高レベルにどの程度の損害がありうるかを明らかにしていた。
1939年5月、ノモンハン事件が起きると、宮城とヴーケリッチが関東軍の動向を探るため、満州に渡る[3]。新京に到着した宮城は、革新主義思想の持ち主で関東軍司令部付の小代好信伍長から情報を聞き出す。
第2次世界大戦開始後は、情報や活動資金の受け渡しは日本国内でおこなわれるようになり、その役割を担ったのは外交特権を持つ駐日ソ連大使館員であった。たとえば、1940年はじめに新橋演舞場でクラウゼンから資料を受け取り、活動資金を渡したのは二等書記官のヴィクトル・ザイツェフであった。
1940年7月に成立した第2次近衛内閣において松岡洋右が外相に任命されたことは、ドイツとの正式な同盟締結にむかって新しい積極的な局面を迎えたことを示していた。
極東問題についてのリッベントロップの特別顧問ハインリヒ・ゲオルク・シュターマーは、東京でオットと予備的な意見交換を行い、ベルリンでドイツ政府と駐独大使大島浩の会談が行われた後、9月初めに東京に来て、交渉を開始した。1ヶ月の討議の後、イタリアも含めた三国同盟が東京において調印された。
この交渉の重要な点は、同盟は英国に対して向けられ、アメリカが対独参戦した場合は、それにも適用されるということにあった。ゾルゲは、この交渉の要点について、オット、シュターマーの両者から聞いて知っており、モスクワに報告するにあたって、同盟はまず英国のみを目標にしていることを協調した。
三国同盟調印の際、無線電話で祝辞が交換されたついでに、リッベントロップが松岡をヨーロッパ訪問に誘った。日本の内閣と軍部は、この招待に対する態度で対立し、数回の政府会議を経て、1941年3月にようやく松岡がベルリンに出発する。それは、独伊と正式の条約を結んではならない、日本としての約束を与えてはならない、という厳格な制約を付した指令を与えられてのことである。数日遅れて、オットもその後を追った。尾崎は、友人の西園寺公一から松岡の訪欧に関する指令授与に至る内閣内部の討論についての詳しい情報を得ていた。
1941年5月にドイツ陸軍省の特使リッター・フォン・ニーダーマイヤー(de:Oskar von Niedermayer)大佐が東京に到着。彼は前駐日ドイツ大使ディルクセン博士からゾルゲに宛てた紹介状を持参していた。これによりドイツの対ソ戦争開始の方針を知る。
さらにドイツ参謀将校でゾルゲの友人であるショルが決定的な証拠を持ってベルリンからやってきた。彼は確定された独ソ間の戦争に関して取られるべき必要な諸措置についての駐日ドイツ大使宛の極秘指令を持っていた。ゾルゲは酒の席でショル自身からこの情報を得た。 5月15日には、クラウゼンの家から、6月22日が正確な攻撃予定日であることを打電した
日本が対ソ開戦するか否か
6月27日、モスクワからゾルゲに対して、「オルガナイザー」署名で次の指令が送られる。「わが国と独ソ戦争について、日本政府がいかなる決定を行ったかを知らせよ。また、わが国境方面への軍隊の移動についても知らせよ。」
7月2日の御前会議で、日本政府は南北併進論と独ソに対する中立を決定したが、尾崎が西園寺の意見などを含めこの情報をゾルゲにもたらし、ゾルゲはそれをモスクワに打電した。
日本政府の意図に関する最終的な解釈は、日本の動員計画の正確な分析にかかっており、グループの総力がこの目的のために集中された。尾崎は、満州国派遣の兵力とソ連攻撃のための準備の規模を示す全体的な見取図を作成することになっていた。また動員計画の詳細については、宮城が提供し、彼の部下が情報を集めることになっていた。ゾルゲは事態を分析するための全体的な枠組みを作り上げることに没頭した。
8月の尾崎の情報では、日本軍の北方における集結はそれほどのものではないというものであった。オットとドイツ大使館の助言者たちも、日本がドイツ対ソ戦争を軍事的に支援する意図がないことを認めざるを得なかった。8月15日頃、ゾルゲはドイツ大使館筋からの情報の要旨をモスクワに報告した。
1941年8月20日~23日にかけて、軍首脳の会議が開かれ、対ソ戦の問題を討議した。尾崎がこれに関する情報を入手し、ゾルゲに報告し、ゾルゲはこれをモスクワに打電した。「会議は、ソ連に対して本年中は宣戦しないという決定を行った。繰り返す。本年中は宣戦しないという決定を行った。」
9月25日頃、宮城から、東京出発の準備をしている近衛師団が夏服を着ており、南方へ派遣されるものと推測される旨、報告があった。さらに、尾崎の報告が、グループの調査をゾルゲの満足がいくまでに完成させた。それは、満鉄から得た情報で、関東軍が赤軍攻撃のために準備していた兵力をしだいに減少させているという内容であった。
尾崎が第2次近衛内閣の総理大臣秘書官牛場友彦の推薦で内閣嘱託となり「朝食会」に参加し、昭和研究会などに参加したことから、日本政府の動向について情報を得て、尾崎の助言・提言という形でその政策について影響を与えることができる立場にあった。さらに尾崎の知人で外務省嘱託だった西園寺公一が海軍軍令部の藤井茂と親交があったことから、軍部の内情を得ることが可能だった。
ただし、ゾルゲの手記によればモスクワからは政治的性質を持った宣伝や組織的機能に従事することは厳禁されており、グループはどんな個人・団体に対しても政治的な働きかけはほとんどおこなわなかったが、独ソ開戦で日本の対ソ参戦の可能性が高まった1941年には尾崎の提言により対外政策を南進論に転じさせる働きかけを積極的におこなったと述べている[4]。
一斉検挙
1941(昭和16)年10月18日午前6時過ぎ、麻布永坂町の自宅で「ラムゼイ」ことリヒャルト・ゾルゲが逮捕された。同日、麻布区広尾町2番地の洋風二階建ての民家で「フリッツ」と呼ばれている無線技師のマックス・クラウゼンが逮捕された。またフランスのアバス通信東京支局の記者であった「インクル」こと、ブランコ・ド・ブーケリッチも牛込左内町の自宅で逮捕。3日前にはゾルゲのブレーンで「オットー」と呼ばれていた満鉄東京支社に務める尾崎秀実が自宅で逮捕されていた。8日前には米国共産党員の「ジョー」こと宮城与徳もまた、自宅で逮捕されていた。この一斉検挙でスパイ団の主要メンバーはすべて逮捕され「ラムゼイ機関」は壊滅する。
(後略)
(引用以上)
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改訂履歴
※2017.8.28、新規作成
独り言
返信削除適切なタイミングで適切な対処をすることって重要ですね。とは言っても素人ですから、そうそう上手くいくとは限りませんが。できる限りの努力をするだけです。