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2017年9月7日木曜日

【信濃雑感】国が続いていくとは、裏切られても罵られても


国が続いていくとは

 裏切られても罵られても、日和見されてもお花畑が広がっていても、それでも守る人がいたから国が続いてきたんだと思います。現在の自衛隊の皆様、旧帝国陸海軍の皆様、江戸期以前の防人の皆様、それぞれの思いはご本人にしか分かりませんが、「それでも守る」という方々であろうと思います。
 国民性が時代によって大きく変わるとは思えません。古来より連綿として「それでも守る」という方々がいたからこそ、神話の時代から数えて2600年以上の歴史を保ってきたのではないでしょうか。あくまで参考までに。

※これは個人的な考えであり、この考えを他人様に押しつけるつもりは毛頭ありません。人それぞれに違った思いがあるかと思います。



※2017.9.7、16:00追記
 ネット環境が発達し、誰でも自由に発信して自由に閲覧できる世の中です。この世の中では今まで以上に筆の力を発揮できるのです。文才のある方はそれを活かしてほしい。
 ネットは道具です。新しい道具です。いつの世も、新しい道具をより上手く使いこなした方が強いのではないでしょうか。
(追記以上)



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改訂履歴
※2017.9.7、解説追加(16:00)
※2017.9.7、新規作成

4 件のコメント:

  1. CatmouseTailです。
    守る対象が異なれば、そこに摩擦が生じ、衝突が起こり、争いが生じます。それはやがて双方に「善と悪」・「正義と不義」といった類の対立概念を産み出すことになったのでしょうね。キリスト教や仏教といった宗教もまた教義という人が考え出した規律(決め事)で人を律することにしたのでしょう。人が考え出した「善と悪」、「正義と不義」、「宗教教義」により、古来より人は争い、戦い、戦争をし続けてきた。
    人は一体、何を守っているのでしょうか?
    日月神示に言う「善も悪も共に抱き参らせる」、「日本は世界の霊的中心」という言葉の意味をもう一度噛みしめてみたいと思う。そして、その中にこそ、日本国が2600年以上もの永きにわたる歴史を刻んできた理由が隠されているように感じる。

    ※神道はいわゆる「宗教」ではないと思っている。自然全般への崇拝、畏敬の念であり、教義実体は無い。古神道に至っては、岩、石、樹木等自然物に手を加えるなど畏れ多くいこと。

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    1. 日月神示のお話は大和心さんのところで時折、拝見いたします。ただ正直に言うと、スピリチュアル系のことはよく分からんのですわ。私は霊感が全くないものでして。

      「善も悪も共に抱き参らせる」ですか。仰るように、善悪正邪とかは、そもそも人間が考え出したものですからね。自然界にはそんなもの関係ない。人間は、やれ何々が悪い、やれ誰々が悪い、と理由をつけては争ってきた。
      キリスト教の教義には詳しくありませんが、キリストの神様は正しくてキリストの神様を信じれば救われるとか。果たして他の神様は正しくないのか。アラーの神様だって正しいでしょう。
      日本は多神教でいろんな神様がいますよね。自然を表す神様も多くいます。太陽を表す天照大神と、月を表す月読命が典型でしょうか。
      日本の神道は、善悪正邪でなく「包容と均衡」が大事だということを、自然信仰や神話を通じて暗示しているように思えます。(とは言っても、不逞鮮人のような輩は受け入れられませんが)
      結果として、中国、欧州、中東とかよりも穏やかな民族性になったように思います。また、結果として、中世の戦国の世でも、皇室が存続できた素地になったように思います。

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    2. CatmouseTailです。
      朝鮮人を仏教的に解釈すると(受け売りなんですがw)、下記のようになるそうです・・・
      ----------------------------------
      朝鮮人は外道である。
       仏教によれば、人(の魂)は六道(ろくどう、りくどう)にあり、迷いあるものが輪廻するという、六種類の苦しみに満ちた世界の内に生きている。

          天道(てんどう、天上道、天界道とも)
          人間道(にんげんどう)
          修羅道(しゅらどう)
          畜生道(ちくしょうどう)
          餓鬼道(がきどう)
          地獄道(じごくどう)

       仏教では、輪廻を空間的事象、あるいは死後に趣(おもむ)く世界ではなく、心の状態として捉える。たとえば、天道界に趣けば、心の状態が天道のような状態にあり、地獄界に趣けば、心の状態が地獄のような状態である、と解釈される。
       この六道のいずれにも生きていないとき、その状況を外道と呼ぶ。六道内であれば、たとえ地獄道に落ちようと、魂のありようにより、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道のいずれにでも昇華することができる。しかし外道だけは唯一の例外であり、そもそも魂の修養という考えなど微塵も持たない者の世界である。これをして外道は人と明確に別物とされる。

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    3. 六道輪廻の解釈もいくつかあるみたいですね。この世での心持ちの問題であるとか、転生して生まれ変わるとか。
      しっかし、道から外れた、或いは、道に戻る気がない外道ってのはね(笑) 不逞鮮人はまさに外道ですね。
      外道の解釈も時代によって(紀元前の仏教発祥の頃から何度か転じて)変わってきたみたいですね。

      うちも地元のお寺さんの檀家になってますから、一応、仏教なんですけど・・・転生はしなくていいですわ(笑) 山の霞になって見守ることができれば十分です。

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